TOP > 旧古河邸について
旧古河邸(大谷美術館)の概要
大谷美術館は鉄鋼業・ホテルの経営で知られる大谷米太郎(1881~1968)が晩年に計画し、実現を見ずして世を去った事業である。
大谷米太郎は、富山県の農家から身をおこし、無学文盲にもかかわらず努力を重ね幾多の事業を起こした立志伝中の人物と言われている。 30歳で単身上京し、日雇人足から大相撲力士、酒屋の経営を経て、鉄鋼業、観光業、流通業等多くを起業し、大谷重工業(株)、ホテルニューオータニ、(株)テーオーシー等多くを起業するとともに、大谷技術短期大学(現富山大学)の設立にも貢献した。
大谷米太郎は戦前から事業を通じて古河家と親交があり、財閥解体のなかで古河家から敷地と建物の今後の対応について、売却等の相談を受けた。こうした経緯から昭和39年に国、東京都、古河家、大谷家により覚書が結ばれ、現在は(公財)大谷美術館が建物の管理運営を行っている。
旧古河邸のある西ヶ原の敷地は、かつては明治の元勲陸奥宗光の邸宅があった場所で、宗光の次男潤吉が古河家に養子に入ったことで古河家の所有となった。(潤吉は古河家2代目当主)
大正3年頃、古河家3代目当主、古河虎之助(1887~1940)が本邸建設のために隣接する土地を買収して約1万坪の敷地とした。
本館建物と西洋庭園はジョサイア・コンドルが設計、大正6年5月に竣工。
洋風庭園に続く池泉回遊式の日本庭園は植治の名で知られる京都の庭師、小川治兵衛(おがわじへえ)が作庭、大正8年完成。
建物も庭園も竣工当時の姿を保存している極めて貴重な事例として、国の名勝に指定されている文化財である。
(昭和57年東京都の名勝指定 平成18年に国の名勝指定)
戦後は庭園建物ともに古河家の手を離れ国有となり、大蔵省の所管となった。
直後は進駐軍に接収され、イギリス大使館付き駐在武官の独身寮に6年ほど使用されるが、接収解除された昭和27年から無人の状態が約30年ほど続き荒廃が進み、蔦に覆われて近所でお化け屋敷と称されていた時代もある。シャンデリアは落ち、ガラスは割られ、土足で人が入り室内で焚き火をした形跡まであったという。
修復工事は昭和58年~63年に6年間の歳月をかけて財団法人大谷美術館が東京都の助成金を得て行った。
平成元年より一般公開を行っている。
大谷美術館の基本理念
文化、芸術、教育を通じた社会貢献を目指した大谷米太郎の意志とアイデアに富んだチャレンジ精神を継承し、大谷美術館の管理・所有する歴史的建造物や文化財の保全・活用による文化の伝承・普及と柔軟・多様で創造性豊かな人材教育を目指した大谷利勝前理事長の事業の更なる発展を目指し、来館者がコンドル建築と浮世絵などの美術品を身近にわかりやすく、体験・体感し、楽しく創造性を育む時を過ごせる創発的な美術館を実現する。
旧古河邸の構造と特色
本館の規模は延414坪 2階建地下1階。
主構造は煉瓦造、小屋組と床梁は木造、一部鉄骨梁を使用。2階ホールにトップライトを設けている。
外壁は真鶴の新小松石(安山岩)、切妻屋根は天然スレート葺き、出窓や玄関ポーチ屋根は銅板瓦棒葺き。
素朴で重厚な外観はスコットランドの建築や英国の別荘建築に近い。
旧古河邸はコンドルの最晩年の設計で、洋館内部に和室を完全な形で取り込んだ極めて珍しいプランである。
1階がすべて洋室で主に接客のための空間なのに対し、2階の寝室を除いたすべての部屋が伝統的な和室である。
和洋の様式を折衷することなく巧みな構成で和洋の調和を図っている。
和と洋を共存させる手法は庭園の配置にも見られ、大きな特色となっている。